歴史

History

焼き杉の歴史

History
昭和48(1973)年、二代目社長の西下芳雄は、当時ほとんど使い道のなかった杉の中目材(直径が20~28cm)を利用するために、焼杉の機械生産を模索し始めました。戦後から30年ほど経ったころで、焼杉は社会の中で広く根付きつつあり、個人住宅の外壁に取り入れられていきました。さまざまな業界において工業化が進むなか、焼杉も品質管理を徹底すればきっと量産はうまくいくのではないか。その想いをもとに、機械の制作を開始することに。努力が実を結び、焼杉機の第一号機が完成しました。日本初の試みで、共栄木材は焼杉における工業生産の先駆者となった瞬間でした。焼杉への需要もあり、売上は右肩上がりに伸びていきました。
画期的な挑戦で多くの注目を集める一方、機械の特許や意匠登録などをしていなかったため、同業他社が増え、マーケットが一気に拡大。一時期は供給過多で競争が厳しい時代もありました。同時に、時代が昭和から平成へと移るなか、純和風の家を日本人が建てなくなる傾向にありました。それに伴い外壁に焼杉板を使うことが減り、業界は大きく縮小。国内で焼杉の工業生産を行う会社の数は、減少の一途を辿りました。
そんな壊滅的な状況の中でも、共栄木材は諦めませんでした。黙々と焼杉を生産し続けたのです。ただ生産するのではなく、焼杉の伝統技法を受け継ぎながら同時に新しい付加価値を付け加えることに注力しました。例えば、幅の広い材を縦に張るという従来の使い方ではなく幅の狭い材を横に張ったり、焼杉板に炭を落として色をつけたりなど、小さな工夫を積み重ねていったのです。何度も失敗をしましたが、粘り強く改良を継続しました。
この独特な試みは、焼杉の印象を根本的に変えることに繋がりました。純和風の家でしか用いられなかった焼杉は、モダンな建築をはじめ和風の世界観とは離れた建築物にも使われるようになったのです。新しい焼杉の作り方や、伝わり方の提案にまで踏み込むという姿勢は、建築家の方をはじめ多くの方々の共感を得ることにつながりました。
今日においては、国内のみならず東南アジア、アメリカ、ヨーロッパなど海外の国々からの要望も増えています。
焼杉を決して諦めなかった歴史と、数多くの方々との信頼関係が、今日の共栄木材を形作っています。